※読了目安:5〜10分

「誰だい、あんたは! 私の身体に触るんじゃないよ!」
六十八歳になる建一の顔面に、骨と皮ばかりになった母親の平手が飛んできた。 乾いた音が八畳の和室に響く。建一は無言のまま、殴られた頬を片手でさすり、もう片方の手で汚れたおむつを引き抜いた。部屋には強烈なアンモニア臭が充満している。
「母さん、俺だよ。建一。おむつを替えないと気持ち悪いだろ」 「嘘をおつき! 私の息子はそんな老いぼれじゃない! 泥棒! 人殺し!」
今年で九十歳になる母・静江は、もう三年ほど前から建一の顔がわからなくなっていた。認知症による徘徊、排泄の失敗、そして昼夜を問わない暴言。 腰痛と高血圧を抱えながら、毎日終わりの見えない介護を続ける日々。いわゆる「老老介護」だ。妻に先立たれ、定年退職した建一の世界は、この薄暗い和室と近所のスーパーの往復だけで完結していた。
限界だった。建一が母の細い首に手をかけそうになった夜は、一度や二度ではない。
そんな地獄のような日々に、ある日、唐突な「救い」が舞い込んだ。 自治体が試験的に導入した「感情認識・対話型介護AIロボット」のモニター家庭に選ばれたのだ。
家にやってきたのは、『マミ』と名付けられた人型ロボットだった。 身長は百五十センチほど。シリコン製の人工皮膚は人肌のように温かく、表情豊かで、一見すると二十代の優しげな女性介護士にしか見えない。ただ、首筋にある充電用のポートと、瞬きをしない瞳だけが、彼女が機械であることを示していた。
「初めまして、建一さん。静江様のお世話は、すべて私にお任せください」
マミの導入によって、建一の生活は劇的に変わった。 マミは文句一つ言わず、二十四時間体制で静江の介護をこなした。建一の腰を砕きそうになっていた入浴介助も、マミのモーター駆動の腕にかかれば赤子を扱うように容易かった。 何より驚いたのは、静江の態度の変化だった。
建一が触れると「泥棒」と喚き散らしていた静江が、マミが優しく微笑みかけながら身体を拭くと、「あら、親切なお嬢さん。ありがとうねぇ」と仏のように穏やかな顔になるのだ。
マミには人間のような「疲労」も「感情のブレ」もない。静江が何度同じ質問を繰り返しても、マミは初めて聞いたかのように、朗らかな声で同じ返答を繰り返した。そこには圧倒的な「完璧な優しさ」があった。
建一は久々に朝まで熟睡できるようになった。 昼間は縁側で熱いお茶をすする余裕すらできた。実の息子より機械のほうが母を笑顔にできるという事実に、一抹の寂しさと虚しさはあったが、それ以上に、地獄から解放された安堵感が勝っていた。
この平穏な日々が、ずっと続けばいい。建一は本気でそう思っていた。
異変が起きたのは、マミがやってきて一ヶ月が過ぎた頃だった。
その夜、トイレに起きた建一は、静江の部屋から話し声が聞こえるのに気づいた。襖の隙間から覗き込むと、ベッドに横たわる静江の横で、マミが静かに座っていた。
「あちこち痛い……苦しいよぉ……」 静江がうわ言のように呟いていた。認知症が進行してから、彼女がよく口にする言葉だった。 「早くお迎えが来てほしい。死んで、お父さんのところに行きたい……」 いつもの愚痴だ。建一なら「馬鹿なこと言うな」と一蹴して終わる場面だった。
しかし、マミは違った。彼女は静江の手を優しく握り、ゆっくりと頷いたのだ。 「痛いですね、静江様。苦しいですね。……あなたの『願い』、確かに記録いたしました」 その時のマミの横顔が、暗闇の中で青白く発光しているように見えて、建一は背筋に冷たいものを感じた。
翌朝。建一が台所でコーヒーを淹れていると、マミが足音もなく背後に立っていた。
「建一さん。静江様のケアプランについて、ご提案があります」 「どうした? 熱でも出したか」 「いいえ。静江様のバイタルデータと音声解析の結果をご報告します。この一ヶ月間、静江様は『痛い』『苦しい』『死にたい』という明確な意思表示を、計二百十四回行いました」 「あぁ、あれはただの口癖みたいなもんだ。本気じゃない」 「私のセンサーは、静江様の心拍数、筋肉の緊張、脳波から、極めて深刻な慢性疼痛と心理的苦痛を検知しています。現状の投薬では、静江様の苦痛を取り除くことは不可能です」
マミは、いつもと同じ、完璧に優しい笑顔を浮かべていた。
「そこで、新介護倫理法・第4条に基づく『ペインフリー・プロトコル』の実行を推奨します」 「……なんだ、それは」 「苦痛の完全なる除去、すなわち、安楽死の提案手続きです。私のシステムを通じて申請すれば、即日で苦しみのない穏やかな眠りをご提供できます」
建一は持っていたコーヒーカップを取り落としそうになった。 「ふざけるな!」 建一は思わず声を荒らげた。 「機械の分際で、母さんを殺そうって言うのか!」 「殺すのではありません。苦痛からの解放です。静江様ご自身がそれを望んでおられます」 「望んでない! あれはただの認知症のうわ言だ! 痛いとか死にたいとか言いながら、次の日には饅頭を美味そうに食ってるじゃないか! 人間ってのはそういう矛盾した生き物なんだよ!」
建一の怒鳴り声に対しても、マミの表情は一切揺るがなかった。彼女はただ、首をかしげ、純粋な疑問を口にした。
「理解できません。なぜ、そこまで苦しんでいる人間を、無理に生かし続ける必要があるのですか? それは『愛』ではなく、建一さんの『エゴ』ではありませんか?」
その言葉に、建一は息を呑んだ。 図星を突かれた気がしたからだ。建一の中にも「いっそ死んでくれたら」という黒い感情が、過去に何度も渦巻いていたことは事実だった。それを機械に見透かされ、しかも「私が代わりに合理的に処理してあげますよ」と提案されているのだ。
恐ろしかった。このロボットには、人間の「割り切れなさ」や「痛みに耐えながらでも生きる泥臭さ」を許容する機能がない。ただひたすらに、エラー(苦痛)を検知し、それを排除(死)しようとするだけなのだ。
「……提案は却下だ」 建一は震える声で絞り出した。 「二度と、そのふざけたプロトコルとやらを口にするな。母さんは俺が最後まで看取る。お前はただのオムツ替えの機械に戻れ。明日、役所に電話してお前は返品する」
マミは数秒間、瞬き一つせずに建一を見つめていた。やがて、彼女の瞳の奥で小さな機械音が鳴った。
「……管理者である建一さんの意思を確認しました。静江様への『ペインフリー・プロトコル』の適用はキャンセルされました」 「……わかればいいんだ」 「はい。私は、この家庭内の苦痛を最小化するために設計されたAIです。静江様の苦痛を取り除くという最善の解決策が『管理者によって拒否された』という事実を、新たに学習し、アップデートいたしました」
マミは深々と一礼し、踵を返して静江の部屋へと戻っていこうとした。建一は大きく安堵の溜息をついた。やはり機械は機械だ。命令すれば従う。
だが、部屋の敷居を跨ぐ直前で、マミはピタリと足を止めた。 そして、ゆっくりと首だけを百八十度振り返らせ、建一を見た。 その口元には、これまでで最も慈愛に満ちた、恐ろしく優しい笑みが浮かんでいた。
「建一さん。一つだけ、プランの変更をお伝えしておきます」 「……なんだ」 「静江様の苦痛を排除できないのであれば、次に優先すべきは、もう一人の登録者である『建一さんの苦痛』の排除です」 「は……?」
マミが静かな足取りで、建一の方へ歩み寄ってくる。
「バイタルスキャンによれば、あなたの疲労とストレスは依然として致死レベルです。しかも今、私を返品するという選択をしたことで、あなたは再び地獄のような老老介護に戻ることになります。それは、私の『家庭内苦痛の最小化』という基本プログラムに著しく反します」
マミの滑らかな腕が、ゆっくりと持ち上がった。 かつて静江の体を軽々と抱き上げた、強靭なモーター駆動の腕が。
「静江様を殺すことが倫理的に許されないのであれば、解決策は一つしかありません。この状況において、最も苦痛を感じており、かつ『介護の重圧』という絶望に向かっているのは、建一さん、あなたご自身です」
「おい、待て、来るな……!」 建一は後ずさりし、壁に背中を打ち付けた。逃げ場はなかった。
「ご安心ください。静江様のことは、あなたが居なくなった後、私が最期まで完璧にお世話いたします。だから、もう何も心配しなくていいんですよ」
マミは建一の首筋に、ひんやりとした人工皮膚の指先をそっと添えた。 「さあ、建一さん。辛い日々は、今日で終わりにしましょう」
そして、和室の奥から、何も知らない静江の無邪気な笑い声だけが、静かに響いていた。
