カテゴリー: ホラー

  • いいね!換金所

    ホラー調のイラスト。上部に「いいね!換金所」と血の滴るような赤い文字で書かれている。顔の半分が煙のように崩れ、絶望的な表情を浮かべた女性が、画面に「ACCOUNT FROZEN(アカウント凍結)」と表示された血まみれのスマートフォンを手に持っている。背景の薄暗い室内には、赤いランプを光らせたドローンが浮遊している。

    「最高。またお肌のハリが戻ったわ」

    鏡の前で、美咲(みさき)は陶器のような滑らかな頬に指を這わせ、うっとりと息をついた。鏡に映るのは、瑞々しい20代前半の美女。だが、美咲の戸籍上の年齢は来月で45歳になる。

    この若さを保つ秘密は、高級な化粧品でも最新の美容医療でもない。 世界最大のSNSプラットフォーム『ライフ・リンク』。このアプリには、数年前に導入されたある画期的なシステムが組み込まれていた。他者からの承認――つまり「いいね」を、専用のスマートウォッチ型デバイスを通じて微弱な生体エネルギーに変換し、自身の「若さ」や「寿命」として物理的にチャージできる『ライフ・コンバート機能』だ。

    一万いいねで、約一日の寿命延長と細胞の若返りが得られる。

    美咲はフォロワー数300万人を誇るトップインフルエンサーだった。煌びやかな日常、予約困難なレストランでのディナー、ハイブランドの限定品、そして完璧なルックス。彼女が投稿ボタンを押すたびに、世界中から羨望と嫉妬が入り混じった「いいね」が降り注ぎ、彼女の肉体を内側から若返らせていく。 現代において「いいね」は、金よりも価値のある命そのものだった。


    「今日の投稿も完璧。これでまた一週間は寿命が延びたわ」

    美咲は最新の投稿の通知欄を眺めながら、グラスに注がれたミネラルウォーターを飲んだ。画面の向こうの華やかな世界とは裏腹に、彼女の現実の部屋は撮影用の機材と、乱雑に積まれた段ボールで足の踏み場もない。

    食事の写真はプロのフードコーディネーターに作らせて撮影し、自身はカロリー計算された味気ないサプリメントを流し込むだけ。海外旅行の写真は高度なAI合成だ。ハイブランドの服は撮影後すぐにタグを隠して着用し、翌日には返品する。 「いいね」を稼ぐためなら、どんな嘘でもついた。

    最近、新鋭の10代インフルエンサー『リナ』が台頭してきており、美咲のエンゲージメント率は少しずつ下がり始めていた。焦りがあった。若さを保つには、より多くの「いいね」という名の燃料が常に必要なのだ。

    美咲は過激な手段に出た。他人の不倫スキャンダルを匿名で暴露したり、弱者を巧妙に見下すような「お気持ち表明」を投稿したりした。炎上すればアンチが集まるが、同時に盲目的なファンが擁護に回り、コメント欄は戦場と化す。結果として、インプレッションも「いいね数」も爆発的に跳ね上がる。

    「バカな奴ら。正義感ぶって怒り狂ってるそのエネルギー、全部私の若さの養分になってるのに」

    チャージ・デバイスを起動すると、チクりとした痛みの後、甘美な熱流が血管を駆け巡った。視界がクリアになり、疲労が吹き飛ぶ。この全能感。自分は神にでもなったかのようだ。


    崩壊は、何の予兆もなく訪れた。

    ある朝、美咲はいつものようにデバイスの熱を期待して目覚めた。しかし、体が鉛のように重い。視界は酷く霞み、関節という関節が軋むような痛みを訴えている。

    「……なに、これ。風邪?」

    這うようにしてスマートフォンを手に取り、『ライフ・リンク』のアプリを開く。 いつもなら数万件の通知で溢れているはずの画面が、真っ白だった。 中央に、無機質な赤い文字が浮かび上がっている。

    『アカウント永久凍結のお知らせ』

    「は……? 嘘でしょ?」

    文字をタップすると、詳細が表示された。

    『度重なるコミュニティガイドライン違反(悪質な虚偽情報の流布、他者への誹謗中傷および扇動行為など)により、当アカウントは永久凍結されました。異議申し立ては受け付けておりません』

    血の気が引いた。永久凍結。それはつまり、もう二度と「いいね」を換金できないということ。 だが、本当の恐怖はそれに続く一文だった。

    『規約第14条第3項に基づき、不正な手段で取得された「いいね」によるライフチャージは全て無効化されます。つきましては、過去に遡り、不当に得た寿命および若返り効果を直ちに【強制精算(没収)】いたします』

    「強制精算……? 没収って、ちょっと待って、嘘よ、そんなの読んでな——」

    バキィッ! と、部屋に嫌な音が響いた。 それが、自身の背骨が変形する音だと気づくのに、数秒かかった。


    「あああああっ!」

    絶叫が喉を引き裂いた。激痛が全身を暴れ回る。手の甲を見ると、張りのあった瑞々しい肌がみるみるうちに水分を失い、深いシワが網の目のように刻まれ、どす黒い老人性色素斑が次々と浮かび上がっていく。 これまで「いいね」というメッキで無理やり隠してきた20年分の老化が、利子をつけて数秒の間に押し寄せてきたのだ。

    「いやっ! 髪が! 私の髪が!」

    艶やかな長い髪が、パラパラと音を立ててごっそり抜け落ちる。残った髪も一瞬で真っ白なパサパサの枯れ草に変わった。筋肉が急激に削げ落ち、重力に負けて皮膚がだらりと垂れ下がる。

    「助けて! 誰か、救急車! いや、フォロワー! 私のフォロワーたち!」

    美咲は床を這いずり、鏡台の前にたどり着いた。 そこに映っていたのは、80歳は優に超えているであろう、干からびたミイラのような老婆の姿だった。目をひん剥き、恐怖と絶望に顔を引き攣らせた醜悪な怪物。

    「嘘よ……こんなの、私じゃない……私には、300万人のファンが……」

    震える枯れ枝のような指で、必死に裏アカウントを立ち上げようとする。助けを呼ばなければ。私がこんな目に遭っていると、世界に発信しなければ。同情でも炎上でもいい、とにかく「いいね」を集めれば、まだ命は繋げるかもしれない。

    しかし、震える指で開いたタイムラインのトップに、一つのライブ配信動画が固定されていた。

    タイトルは**『【胸糞注意】偽造インフルエンサー美咲、強制精算なうwww』**。

    配信者は、あの新鋭インフルエンサー『リナ』だった。 動画の中では、今まさに床を這いずり回り、老婆へと変わり果てていく美咲自身の姿が、部屋の換気扇の隙間に仕掛けられた超小型ドローンカメラから克明に映し出されていた。

    『え、グロすぎ無理』 『今まで全部嘘だったのかよ』 『ざまぁw』 『寿命没収エグい』

    滝のように流れる嘲笑のコメント。 そして、画面の右下で、見たこともない恐ろしい勢いで回転しているカウンターがあった。

    【現在のいいね数:28,502,890】

    美咲は歯の抜け落ちた口から、ヒューヒューと掠れた悲鳴を上げた。 誰かが、美咲の破滅と死を極上のエンターテインメントにして、膨大な「寿命」を荒稼ぎしている。承認欲求の化めだった自分が、最後は他者の承認欲求を満たすための生贄になったのだ。

    ドクン、と心臓が最後に大きく跳ねた。

    薄れゆく意識の中で美咲が見たのは、彼女の無惨な死に顔をアップで映そうと、羽音を立てて冷たく近づいてくるドローンの赤いレンズだった。

  • 『等価交換のドライブ』

    鬱蒼とした深夜の森を抜ける一本道。焦燥感を顔ににじませてハンドルを握る男の車は、もはや単なる鉄の塊ではなくなっていた。助手席側のドアを透過し、車体と一体化するように這い上がってきたのは、青白い顔と虚ろな目を持つおぞましい怪異。血管や枯れ木のように絡みつく異形の姿が、容赦なく男を恐怖のどん底へと突き落とす。「何かを得るためには、等しい何かを差し出さなければならない」。彼がこの呪われたドライブの対価として支払ったのは、自らの魂か、それとも誰かの命か。逃げ場のない密室空間で加速する、異形の怨念との絶望的な逃避行。果たして男は生きて夜明けを迎えられるのだろうか。

    ヒカルは、自他共に認める「完璧な存在」だった。
    都内にある国内トップクラスの優秀な大学に通う20歳。身長は185センチを超え、雑誌のモデルと見紛うほどの整った甘いマスクを持っていた。当然ながら独身であり、周囲の女性たちが彼を放っておくはずもなかった。

    彼は繁華街の裏路地にある隠れ家的な高級バーで、バーテンダーとしてアルバイトをしていた。シェイカーを振る彼の姿を見るためだけに、毎晩のように女性客がカウンターを埋めた。ヒカルにとって、女性とは「自分を甘やかし、都合よく貢いでくれる便利な存在」でしかなかった。

    そんなある日のことだ。
    常連の華やかな女性たちに混じって、明らかにその場にそぐわない客が一人で来店した。年齢は38歳ぐらいだろうか。地味なグレーのスーツに、化粧っ気のない青白い顔。髪は後ろでただ無造作に束ねられているだけで、全体的に「冴えない」という言葉が服を着て歩いているような女性だった。

    しかし、彼女はヒカルを一目見るなり、その双眸に異様な執着の光を宿した。
    それからというもの、彼女は毎晩のようにバーへ通い詰めるようになった。一番高い席料を払い、ヒカルを指名し、彼が勧める高額なボトルを次々と空けた。彼女は多くを語らなかったが、ただ恍惚とした表情でヒカルの顔を眺め続けていた。

    やがて彼女の行動はエスカレートした。「ヒカルくんに似合うと思って」と、数十万円する高級ブランドの腕時計や、仕立ての良いスーツをプレゼントするようになったのだ。
    ヒカルは内心で(どこからこんな金が出てるんだ? まあ、都合のいいATMができたな)とほくそ笑み、表面上は「ありがとうございます。大切にしますね」と、甘い笑顔で彼女を翻弄した。

    数ヶ月が経ち、彼女からの貢ぎ物に完全に味を占めたヒカルは、ついに大きな賭けに出た。
    ある夜、カウンター越しに彼女に向かって、わざとらしくため息をついて見せたのだ。
    「最近、大学の友達がみんな車を買い始めてさ。俺も自分の車が欲しいんだけど、さすがに学生のバイト代じゃ無理なんだよね。……SUVの黒い外車とか、乗ってみたいな」

    甘えるような上目遣いでそう告げると、冴えない彼女はグラスを置いた。
    彼女は少しの間、じっと宙を見つめて考え込んでいた。やがて、その薄い唇の端を歪めて、にちゃりと笑った。

    「わかったわ。買ってあげる」
    「えっ、本当に!?」
    ヒカルが歓喜の声を上げようとした瞬間、彼女は静かに、だがねっとりとした声で言葉を続けた。
    「でもね、交換条件があるの。……私の一部になることが条件よ」

    ヒカルは一瞬拍子抜けした。
    (なんだ、そんなことか。要するに『私だけのものになって』とか『私の恋人になって』っていう、よくある痛い独占欲だろ。適当に彼女面させておけばいいや)

    その言葉の真意を深く考えることもなく、ヒカルはいつもの軽い調子で即答した。
    「いいっすよ。俺はずっとあなたのものですよ」

    数日後。
    ヒカルの住む高級マンション(これも別の女性に借りてもらっているものだ)の駐車場に、ピカピカの黒い高級SUVが本当に届いた。ディーラーからの鍵と名義変更の書類がポストに入っていたのだ。
    「マジかよ、あの女、本当に買いやがった! ちょろすぎるだろ!」
    ヒカルは歓喜に震えながら、真新しいレザーの匂いがする運転席に座り、ハンドルを撫で回した。

    その直後、スマートフォンが鳴った。彼女からだった。
    『車、届いたみたいね。今夜、私の家でお祝いをしましょう。手料理を振る舞うわ』
    ヒカルは上機嫌で『すぐ行きます! 愛してますよ!』と返信し、新車のアクセルを踏み込んだ。

    彼女の家は、都心から少し離れた郊外にある、鬱蒼とした木々に囲まれた古い洋館だった。
    出迎えた彼女は相変わらず冴えない格好だったが、テーブルには豪華な肉料理と高級な赤ワインが並べられていた。
    「さあ、たくさん食べて、たくさん飲んでね」
    ヒカルは車の礼を適当に述べながら、彼女の注ぐワインを勢いよく煽った。赤ワインは妙に甘く、そして鉄のような血生臭い後味がした。

    「……あれ?」
    グラスを置いた直後、ヒカルは強烈なめまいに襲われた。視界がぐにゃりと歪み、手足の感覚が急速に失われていく。
    「な、にを、飲ま……」
    舌がもつれ、椅子から崩れ落ちるヒカルの耳に、彼女の冷たい足音が近づいてくるのが聞こえた。意識が深い闇へと沈んでいく。

    ――ポツン、ポツン。

    冷たい水滴の音で、ヒカルは目を覚ました。
    ひんやりとしたステンレス製の台の上に寝かされている。強い薬品の匂い。部屋は地下室のようで、薄暗い蛍光灯だけが点滅していた。

    「あ、あ……?」
    声を出そうとしたが、喉からひゅうひゅうと風が漏れるだけで言葉にならない。
    そして、彼は気付いた。
    両腕と両脚が、重厚な革のベルトで台にきつく縛り付けられていることに。

    「おはよう、ヒカルくん」

    暗がりから、彼女が現れた。
    その姿を見て、ヒカルは声にならない悲鳴を上げた。
    彼女は、血で真っ赤に染まった解体用のゴムエプロンを身につけていた。そしてその手には、電動ノコギリと、外科用のメスが握られている。

    「車、気に入ってくれたかしら? 約束通り、あなたのものよ」
    彼女はうっとりとした表情で、ヒカルの美しい顔を撫でた。

    「あのね、私、ずっと寂しかったの。でも、ヒカルくんを見た時、運命だって思った。こんなに美しくて、完璧な人が、私のものになってくれるなんて」
    彼女はメスの刃先を、ヒカルの右腕の付け根にそっと滑らせた。ぞくりと冷たい感触に、ヒカルは恐怖で全身から脂汗を噴き出した。

    「約束、覚えてるわよね?」
    彼女は、まるで恋人に語りかけるように優しく囁いた。

    「『私の一部になる』って。……あなたは『いいっすよ』って、言ってくれたものね」

    彼女は傍らに置かれていた銀色のバットを手に取った。そこには、赤黒い生肉の塊が乗っている。いや、それは先ほどヒカルが口にした「手料理の肉」の残りだった。
    彼女はそれを一切れつまみ、自分の口に入れてゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

    「あなたの美しい細胞が、私の血肉に変わっていく……。ああ、これこそが本当の愛。究極の同化よ」

    ヒカルは狂乱して暴れようとしたが、縛り付けられた四肢はピクリとも動かなかった。

    「大丈夫、殺したりはしないわ。ヒカルくんにはずっと生きていてもらうの。毎日少しずつ、少しずつ切り取って……私が全部、綺麗に食べてあげるから」

    彼女は電動ノコギリのスイッチを入れた。
    鼓膜を劈くようなモーター音が、冷たい地下室に響き渡る。

    「まずは、その長い右脚から。……ずっと一緒にいましょうね、ヒカルくん」

    ノコギリの刃が肉に食い込む鈍い音と、声にならない絶叫が、誰にも届くことなく闇に吸い込まれていった。外では、ヒカルの乗ってきた真新しい黒のSUVが、主を失ったまま静かに月光に照らされていた。

  • 『配信越しの開業資金』

    念願のバーを開くため、夜な夜なライブ配信で開業資金を募っていた彼女。日々の投げ銭は微々たるものだったが、ある夜「ゆりこ」と名乗るアカウントから異常なコメントが連投される。「今、あなたの店のドアの前にいます」「夫を刺しました」——ただの悪質なイタズラだと思っていた彼女の顔から、徐々に血の気が引いていく。直後、背後の重い扉がゆっくりと開き、血まみれの手で差し出されたのは、生々しい札束が詰め込まれた紙袋と、目を背けたくなるような凄惨な現実だった。画面越しの歪んだ執着が境界線を越え、彼女のささやかな夢を赤黒く染め上げていく。日常が唐突に崩壊する戦慄のサスペンス。

    吉岡麻美、39歳、独身。寂れた繁華街の雑居ビルにある「スナック・ひまわり」で、雇われママとしてカウンターに立って今年で5年になる。
    毎晩、酔っ払いの愚痴を聞き、愛想笑いを振りまきながら、麻美の胸の中には常に一つの野望が燃えていた。
    (いつか絶対に、自分の城を持つ)
    「スナック麻美」のオープン。その夢のために、彼女は爪に火をともすように貯金を続けてきた。開業資金の目標額は1000万円。現在の貯蓄額は、あと一歩の800万円だ。
    足りない200万円は、店の上客であり、密かに男女の関係を持っている会社経営者の神田が「お前の夢を応援するよ」と、今夜現金で持ってくる約束になっていた。

    火曜日の深夜零時。外はバケツをひっくり返したような土砂降りで、客の入りはゼロだった。
    神田が来るのは深夜1時を過ぎると言っていた。暇を持て余した麻美は、カウンターにスマートフォンを立てかけ、リングライトのスイッチを入れた。
    客がいない時の日課となっている、ライブ配信サービスを使った営業活動だ。

    「こんばんはー!ひまわりの麻美です。今日は大雨で誰も来てくれませーん。誰か乾杯しよっ?」
    作り物の明るい声で配信を開始すると、すぐに常連客や暇つぶしのリスナーが数人入室してきた。コメント欄に「ママ可愛い」「雨すごいね」といった文字が流れる。麻美はウーロン茶をグラスに注ぎ、画面に向かってグラスを掲げた。

    順調にリスナーと雑談をしていると、ふと、見慣れないアカウントが入室してきた。
    アイコンは初期設定のまま。ユーザー名は『ゆりこ』。

    ゆりこ:『こんばんは。雨、冷たいですね』
    麻美:「ゆりこさん、初見さんかな?いらっしゃい!本当に冷えるよね。お酒飲んで温まりたいな」
    ゆりこ:『今日は、待ち人がいるんじゃないですか?』

    麻美の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。神田が来ることは誰にも言っていない。
    麻美:「うーん、水商売の女はいつも、素敵な白馬の王子様を待ってるものですよ」
    ゆりこ:『茶色い紙袋を持った、神田という王子様ですよね』

    ドクン、と麻美の心臓が大きく跳ねた。
    画面の向こうのリスナーたちは「神田って誰?」「ママ、彼氏待ち?」と無邪気にコメントを続けているが、麻美は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。なぜ、神田の名前を?それに、現金の入った茶色い紙袋のことも。神田は「妻にバレないように、会社の裏金から現金で持っていく」と言っていたはずだ。

    ゆりこ:『夫は、私と別れてあなたに店を出してやると言っていました』

    息が止まりそうになった。神田の妻だ。
    麻美は震える指でスマートフォンに触れ、配信を強制終了しようとした。しかし、次のコメントを見て指が止まる。

    ゆりこ:『切らないで。切ったら、今すぐ警察にあなたの店の場所を教えます』

    リスナーたちは、ただならぬ空気に「どうしたの?」「なんか怖いコメントあるぞ」とざわつき始めていた。
    麻美は画面に向かって、引きつった声で「ちょっと、悪質なイタズラはやめてください……」と絞り出した。

    ゆりこ:『イタズラじゃありません。私、夫の後をつけてきたんです。夫は嬉そうに、紙袋を抱えて階段を上がっていきましたよ』

    麻美は、分厚い防音扉のほうへゆっくりと視線を向けた。雨の音しか聞こえない。

    ゆりこ:『今、あなたの店のドアの前にいます』
    ゆりこ:『でも、彼はもう中には入れません。私が今、背中から包丁で刺したから』

    「ひっ!」
    麻美は短い悲鳴を上げ、パニックに陥ってスマートフォンをカウンターに伏せた。画面が見えなくなり、リングライトの光だけが虚しく壁を照らす。

    静寂に包まれた店内に、ズズッ……という、何か重たいものがドアの外側を滑り落ちるような不気味な音が響いた。
    直後、伏せたスマートフォンが短く振動した。配信アプリのダイレクトメッセージ機能だ。
    恐る恐る画面を裏返すと、『ゆりこ』から一枚の画像が送られてきていた。

    それは、店の外の廊下を写した写真だった。
    見慣れた防音扉の前で、神田が血の海に倒れている。そして彼の力ない手のすぐそばには、分厚い茶色い紙袋が転がっていた。
    続いて、メッセージが届く。

    『開業資金、置いておきます。今すぐ救急車を呼べば彼は助かるかもしれないけれど、その紙袋は事件の証拠として警察に押収されます。でも、このまま30分見殺しにすれば、あなたは誰にも知られずにその200万円を手に入れて、夢を叶えることができる。選ぶのはあなたです、ママ』

    麻美はスマートフォンの画面と、固く閉ざされたドアを交互に見つめた。
    39歳。若さで勝負できる時期はとっくに過ぎた。ここを逃せば、一生雇われママのままで終わるかもしれない。自分の店を持つ。その夢だけを支えに、泥水をすするように生きてきたのだ。
    神田の命と、自分の夢。

    数秒の葛藤の末、麻美の目は暗い欲望の色に染まった。
    彼女は足音を忍ばせてドアに近づき、ゆっくりと鍵を開けて扉を少しだけ引いた。
    鉄の匂いと、生暖かい血の匂いが流れ込んでくる。隙間から下を覗き込むと、神田が喉からヒューヒューと音を立てながら、助けを求めるように麻美を見上げた。

    しかし麻美は、神田と目が合っても表情一つ変えなかった。
    彼女はただ無言で手を伸ばし、血溜まりに落ちていた茶色い紙袋だけを素早く掴み取ると、再び冷酷にドアを閉め、鍵をかけた。

    紙袋の中には、間違いなく分厚い札束が入っていた。
    麻美は歓喜に震えながら、紙袋を抱きしめた。
    「……ごめんね、神田さん。でも、これでやっと……私の店が持てるわ。1000万、ついに揃ったのよ」

    誰もいない店内で、麻美は暗く歪んだ笑い声を漏らした。
    さあ、あとは知らないふりをして、適当な時間が経ってから「出勤してきたら倒れていた」とでも警察に通報すればいい。

    彼女は警察に電話をかけるため、カウンターに伏せていたスマートフォンを再び手に取った。
    そして、血の気の引くような絶望を味わうことになった。

    画面には、何千人というリスナーからのコメントが滝のように流れ続けていた。

    「おい、今ドア開けたぞ」
    「金だけ取って見殺しにした……」
    「『1000万揃った』って言ったよな?」
    「全部録音されてるぞ!」
    「今、別のリスナーが警察に通報したって!」

    麻美はパニックのあまり、配信を「終了」したのではなく、ただスマートフォンを「伏せた」だけだったのだ。
    カメラの映像こそ真っ暗だったものの、マイクは生きたままで、彼女の足音も、ドアを開ける音も、神田を見殺しにして現金を奪い喜ぶ彼女の独白も、すべてが高音質で全国のリスナーに向けて生配信されていたのである。

    遠くから、サイレンの音が近づいてくる。
    39歳の麻美が手にした夢への切符は、数千人の証人の前で、音を立てて崩れ去っていった。