『配信越しの開業資金』

念願のバーを開くため、夜な夜なライブ配信で開業資金を募っていた彼女。日々の投げ銭は微々たるものだったが、ある夜「ゆりこ」と名乗るアカウントから異常なコメントが連投される。「今、あなたの店のドアの前にいます」「夫を刺しました」——ただの悪質なイタズラだと思っていた彼女の顔から、徐々に血の気が引いていく。直後、背後の重い扉がゆっくりと開き、血まみれの手で差し出されたのは、生々しい札束が詰め込まれた紙袋と、目を背けたくなるような凄惨な現実だった。画面越しの歪んだ執着が境界線を越え、彼女のささやかな夢を赤黒く染め上げていく。日常が唐突に崩壊する戦慄のサスペンス。

吉岡麻美、39歳、独身。寂れた繁華街の雑居ビルにある「スナック・ひまわり」で、雇われママとしてカウンターに立って今年で5年になる。
毎晩、酔っ払いの愚痴を聞き、愛想笑いを振りまきながら、麻美の胸の中には常に一つの野望が燃えていた。
(いつか絶対に、自分の城を持つ)
「スナック麻美」のオープン。その夢のために、彼女は爪に火をともすように貯金を続けてきた。開業資金の目標額は1000万円。現在の貯蓄額は、あと一歩の800万円だ。
足りない200万円は、店の上客であり、密かに男女の関係を持っている会社経営者の神田が「お前の夢を応援するよ」と、今夜現金で持ってくる約束になっていた。

火曜日の深夜零時。外はバケツをひっくり返したような土砂降りで、客の入りはゼロだった。
神田が来るのは深夜1時を過ぎると言っていた。暇を持て余した麻美は、カウンターにスマートフォンを立てかけ、リングライトのスイッチを入れた。
客がいない時の日課となっている、ライブ配信サービスを使った営業活動だ。

「こんばんはー!ひまわりの麻美です。今日は大雨で誰も来てくれませーん。誰か乾杯しよっ?」
作り物の明るい声で配信を開始すると、すぐに常連客や暇つぶしのリスナーが数人入室してきた。コメント欄に「ママ可愛い」「雨すごいね」といった文字が流れる。麻美はウーロン茶をグラスに注ぎ、画面に向かってグラスを掲げた。

順調にリスナーと雑談をしていると、ふと、見慣れないアカウントが入室してきた。
アイコンは初期設定のまま。ユーザー名は『ゆりこ』。

ゆりこ:『こんばんは。雨、冷たいですね』
麻美:「ゆりこさん、初見さんかな?いらっしゃい!本当に冷えるよね。お酒飲んで温まりたいな」
ゆりこ:『今日は、待ち人がいるんじゃないですか?』

麻美の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。神田が来ることは誰にも言っていない。
麻美:「うーん、水商売の女はいつも、素敵な白馬の王子様を待ってるものですよ」
ゆりこ:『茶色い紙袋を持った、神田という王子様ですよね』

ドクン、と麻美の心臓が大きく跳ねた。
画面の向こうのリスナーたちは「神田って誰?」「ママ、彼氏待ち?」と無邪気にコメントを続けているが、麻美は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。なぜ、神田の名前を?それに、現金の入った茶色い紙袋のことも。神田は「妻にバレないように、会社の裏金から現金で持っていく」と言っていたはずだ。

ゆりこ:『夫は、私と別れてあなたに店を出してやると言っていました』

息が止まりそうになった。神田の妻だ。
麻美は震える指でスマートフォンに触れ、配信を強制終了しようとした。しかし、次のコメントを見て指が止まる。

ゆりこ:『切らないで。切ったら、今すぐ警察にあなたの店の場所を教えます』

リスナーたちは、ただならぬ空気に「どうしたの?」「なんか怖いコメントあるぞ」とざわつき始めていた。
麻美は画面に向かって、引きつった声で「ちょっと、悪質なイタズラはやめてください……」と絞り出した。

ゆりこ:『イタズラじゃありません。私、夫の後をつけてきたんです。夫は嬉そうに、紙袋を抱えて階段を上がっていきましたよ』

麻美は、分厚い防音扉のほうへゆっくりと視線を向けた。雨の音しか聞こえない。

ゆりこ:『今、あなたの店のドアの前にいます』
ゆりこ:『でも、彼はもう中には入れません。私が今、背中から包丁で刺したから』

「ひっ!」
麻美は短い悲鳴を上げ、パニックに陥ってスマートフォンをカウンターに伏せた。画面が見えなくなり、リングライトの光だけが虚しく壁を照らす。

静寂に包まれた店内に、ズズッ……という、何か重たいものがドアの外側を滑り落ちるような不気味な音が響いた。
直後、伏せたスマートフォンが短く振動した。配信アプリのダイレクトメッセージ機能だ。
恐る恐る画面を裏返すと、『ゆりこ』から一枚の画像が送られてきていた。

それは、店の外の廊下を写した写真だった。
見慣れた防音扉の前で、神田が血の海に倒れている。そして彼の力ない手のすぐそばには、分厚い茶色い紙袋が転がっていた。
続いて、メッセージが届く。

『開業資金、置いておきます。今すぐ救急車を呼べば彼は助かるかもしれないけれど、その紙袋は事件の証拠として警察に押収されます。でも、このまま30分見殺しにすれば、あなたは誰にも知られずにその200万円を手に入れて、夢を叶えることができる。選ぶのはあなたです、ママ』

麻美はスマートフォンの画面と、固く閉ざされたドアを交互に見つめた。
39歳。若さで勝負できる時期はとっくに過ぎた。ここを逃せば、一生雇われママのままで終わるかもしれない。自分の店を持つ。その夢だけを支えに、泥水をすするように生きてきたのだ。
神田の命と、自分の夢。

数秒の葛藤の末、麻美の目は暗い欲望の色に染まった。
彼女は足音を忍ばせてドアに近づき、ゆっくりと鍵を開けて扉を少しだけ引いた。
鉄の匂いと、生暖かい血の匂いが流れ込んでくる。隙間から下を覗き込むと、神田が喉からヒューヒューと音を立てながら、助けを求めるように麻美を見上げた。

しかし麻美は、神田と目が合っても表情一つ変えなかった。
彼女はただ無言で手を伸ばし、血溜まりに落ちていた茶色い紙袋だけを素早く掴み取ると、再び冷酷にドアを閉め、鍵をかけた。

紙袋の中には、間違いなく分厚い札束が入っていた。
麻美は歓喜に震えながら、紙袋を抱きしめた。
「……ごめんね、神田さん。でも、これでやっと……私の店が持てるわ。1000万、ついに揃ったのよ」

誰もいない店内で、麻美は暗く歪んだ笑い声を漏らした。
さあ、あとは知らないふりをして、適当な時間が経ってから「出勤してきたら倒れていた」とでも警察に通報すればいい。

彼女は警察に電話をかけるため、カウンターに伏せていたスマートフォンを再び手に取った。
そして、血の気の引くような絶望を味わうことになった。

画面には、何千人というリスナーからのコメントが滝のように流れ続けていた。

「おい、今ドア開けたぞ」
「金だけ取って見殺しにした……」
「『1000万揃った』って言ったよな?」
「全部録音されてるぞ!」
「今、別のリスナーが警察に通報したって!」

麻美はパニックのあまり、配信を「終了」したのではなく、ただスマートフォンを「伏せた」だけだったのだ。
カメラの映像こそ真っ暗だったものの、マイクは生きたままで、彼女の足音も、ドアを開ける音も、神田を見殺しにして現金を奪い喜ぶ彼女の独白も、すべてが高音質で全国のリスナーに向けて生配信されていたのである。

遠くから、サイレンの音が近づいてくる。
39歳の麻美が手にした夢への切符は、数千人の証人の前で、音を立てて崩れ去っていった。