『等価交換のドライブ』

鬱蒼とした深夜の森を抜ける一本道。焦燥感を顔ににじませてハンドルを握る男の車は、もはや単なる鉄の塊ではなくなっていた。助手席側のドアを透過し、車体と一体化するように這い上がってきたのは、青白い顔と虚ろな目を持つおぞましい怪異。血管や枯れ木のように絡みつく異形の姿が、容赦なく男を恐怖のどん底へと突き落とす。「何かを得るためには、等しい何かを差し出さなければならない」。彼がこの呪われたドライブの対価として支払ったのは、自らの魂か、それとも誰かの命か。逃げ場のない密室空間で加速する、異形の怨念との絶望的な逃避行。果たして男は生きて夜明けを迎えられるのだろうか。

ヒカルは、自他共に認める「完璧な存在」だった。
都内にある国内トップクラスの優秀な大学に通う20歳。身長は185センチを超え、雑誌のモデルと見紛うほどの整った甘いマスクを持っていた。当然ながら独身であり、周囲の女性たちが彼を放っておくはずもなかった。

彼は繁華街の裏路地にある隠れ家的な高級バーで、バーテンダーとしてアルバイトをしていた。シェイカーを振る彼の姿を見るためだけに、毎晩のように女性客がカウンターを埋めた。ヒカルにとって、女性とは「自分を甘やかし、都合よく貢いでくれる便利な存在」でしかなかった。

そんなある日のことだ。
常連の華やかな女性たちに混じって、明らかにその場にそぐわない客が一人で来店した。年齢は38歳ぐらいだろうか。地味なグレーのスーツに、化粧っ気のない青白い顔。髪は後ろでただ無造作に束ねられているだけで、全体的に「冴えない」という言葉が服を着て歩いているような女性だった。

しかし、彼女はヒカルを一目見るなり、その双眸に異様な執着の光を宿した。
それからというもの、彼女は毎晩のようにバーへ通い詰めるようになった。一番高い席料を払い、ヒカルを指名し、彼が勧める高額なボトルを次々と空けた。彼女は多くを語らなかったが、ただ恍惚とした表情でヒカルの顔を眺め続けていた。

やがて彼女の行動はエスカレートした。「ヒカルくんに似合うと思って」と、数十万円する高級ブランドの腕時計や、仕立ての良いスーツをプレゼントするようになったのだ。
ヒカルは内心で(どこからこんな金が出てるんだ? まあ、都合のいいATMができたな)とほくそ笑み、表面上は「ありがとうございます。大切にしますね」と、甘い笑顔で彼女を翻弄した。

数ヶ月が経ち、彼女からの貢ぎ物に完全に味を占めたヒカルは、ついに大きな賭けに出た。
ある夜、カウンター越しに彼女に向かって、わざとらしくため息をついて見せたのだ。
「最近、大学の友達がみんな車を買い始めてさ。俺も自分の車が欲しいんだけど、さすがに学生のバイト代じゃ無理なんだよね。……SUVの黒い外車とか、乗ってみたいな」

甘えるような上目遣いでそう告げると、冴えない彼女はグラスを置いた。
彼女は少しの間、じっと宙を見つめて考え込んでいた。やがて、その薄い唇の端を歪めて、にちゃりと笑った。

「わかったわ。買ってあげる」
「えっ、本当に!?」
ヒカルが歓喜の声を上げようとした瞬間、彼女は静かに、だがねっとりとした声で言葉を続けた。
「でもね、交換条件があるの。……私の一部になることが条件よ」

ヒカルは一瞬拍子抜けした。
(なんだ、そんなことか。要するに『私だけのものになって』とか『私の恋人になって』っていう、よくある痛い独占欲だろ。適当に彼女面させておけばいいや)

その言葉の真意を深く考えることもなく、ヒカルはいつもの軽い調子で即答した。
「いいっすよ。俺はずっとあなたのものですよ」

数日後。
ヒカルの住む高級マンション(これも別の女性に借りてもらっているものだ)の駐車場に、ピカピカの黒い高級SUVが本当に届いた。ディーラーからの鍵と名義変更の書類がポストに入っていたのだ。
「マジかよ、あの女、本当に買いやがった! ちょろすぎるだろ!」
ヒカルは歓喜に震えながら、真新しいレザーの匂いがする運転席に座り、ハンドルを撫で回した。

その直後、スマートフォンが鳴った。彼女からだった。
『車、届いたみたいね。今夜、私の家でお祝いをしましょう。手料理を振る舞うわ』
ヒカルは上機嫌で『すぐ行きます! 愛してますよ!』と返信し、新車のアクセルを踏み込んだ。

彼女の家は、都心から少し離れた郊外にある、鬱蒼とした木々に囲まれた古い洋館だった。
出迎えた彼女は相変わらず冴えない格好だったが、テーブルには豪華な肉料理と高級な赤ワインが並べられていた。
「さあ、たくさん食べて、たくさん飲んでね」
ヒカルは車の礼を適当に述べながら、彼女の注ぐワインを勢いよく煽った。赤ワインは妙に甘く、そして鉄のような血生臭い後味がした。

「……あれ?」
グラスを置いた直後、ヒカルは強烈なめまいに襲われた。視界がぐにゃりと歪み、手足の感覚が急速に失われていく。
「な、にを、飲ま……」
舌がもつれ、椅子から崩れ落ちるヒカルの耳に、彼女の冷たい足音が近づいてくるのが聞こえた。意識が深い闇へと沈んでいく。

――ポツン、ポツン。

冷たい水滴の音で、ヒカルは目を覚ました。
ひんやりとしたステンレス製の台の上に寝かされている。強い薬品の匂い。部屋は地下室のようで、薄暗い蛍光灯だけが点滅していた。

「あ、あ……?」
声を出そうとしたが、喉からひゅうひゅうと風が漏れるだけで言葉にならない。
そして、彼は気付いた。
両腕と両脚が、重厚な革のベルトで台にきつく縛り付けられていることに。

「おはよう、ヒカルくん」

暗がりから、彼女が現れた。
その姿を見て、ヒカルは声にならない悲鳴を上げた。
彼女は、血で真っ赤に染まった解体用のゴムエプロンを身につけていた。そしてその手には、電動ノコギリと、外科用のメスが握られている。

「車、気に入ってくれたかしら? 約束通り、あなたのものよ」
彼女はうっとりとした表情で、ヒカルの美しい顔を撫でた。

「あのね、私、ずっと寂しかったの。でも、ヒカルくんを見た時、運命だって思った。こんなに美しくて、完璧な人が、私のものになってくれるなんて」
彼女はメスの刃先を、ヒカルの右腕の付け根にそっと滑らせた。ぞくりと冷たい感触に、ヒカルは恐怖で全身から脂汗を噴き出した。

「約束、覚えてるわよね?」
彼女は、まるで恋人に語りかけるように優しく囁いた。

「『私の一部になる』って。……あなたは『いいっすよ』って、言ってくれたものね」

彼女は傍らに置かれていた銀色のバットを手に取った。そこには、赤黒い生肉の塊が乗っている。いや、それは先ほどヒカルが口にした「手料理の肉」の残りだった。
彼女はそれを一切れつまみ、自分の口に入れてゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

「あなたの美しい細胞が、私の血肉に変わっていく……。ああ、これこそが本当の愛。究極の同化よ」

ヒカルは狂乱して暴れようとしたが、縛り付けられた四肢はピクリとも動かなかった。

「大丈夫、殺したりはしないわ。ヒカルくんにはずっと生きていてもらうの。毎日少しずつ、少しずつ切り取って……私が全部、綺麗に食べてあげるから」

彼女は電動ノコギリのスイッチを入れた。
鼓膜を劈くようなモーター音が、冷たい地下室に響き渡る。

「まずは、その長い右脚から。……ずっと一緒にいましょうね、ヒカルくん」

ノコギリの刃が肉に食い込む鈍い音と、声にならない絶叫が、誰にも届くことなく闇に吸い込まれていった。外では、ヒカルの乗ってきた真新しい黒のSUVが、主を失ったまま静かに月光に照らされていた。